56回品川セミナー

56回品川セミナー

第一次世界大戦と現代・世界

平成2719日(金) 17:30より

山室 信一(人文科学研究所長・教授)

当日の講演映像

1914年7月、オーストリアからセルビアへの宣戦布告で始まった戦争は、落ち葉の季節までには終わるだろうとの予想を裏切って4年3ヶ月も続いた。この戦争には英・仏・ロ・日・米・中など連合国27か国とオーストリア・独・オスマン帝国など同盟国4か国が参加、アジアやアフリカなどの植民地からも兵士や労働者が動員されたことによって世界規模の戦争へと展開し、その死者は軍人と民間人を合わせて約2600万人にのぼったと推計されている。それは未曾有の大量殺戮をもたらした人類史上の重大事件であるとともに、「戦争と革命の世紀」そして「アメリカの世紀」と呼ばれる20世紀を刻印することとなった。

 しかし、日本ではこの戦争について主たる戦場となったのがヨーロッパだったため、軍需景気による「成金」を生んだことで言及される程度の「遠い戦争」であり、「忘れられた戦争」と見なされてきた。確かに、時の元老・井上馨が述べたように「今回欧洲の大禍乱は、日本国運の大発展に対する大正新時代の天佑」とみなされ、結果的に日本は「五大強国」に列して南洋諸島を委任統治するに至った。ある意味では、「欧洲の大禍乱」にも拘わらず、日本は唯一この大戦で少ないコストで大きな権益を獲得できた参戦国となった。

ガスマスクを着用した塹壕戦(イープル・1917年 )
破壊された都市・イープル
ヴェルダンにおける戦没兵士の墓

他方、イギリスやフランスでは、第一次世界大戦の戦傷者数が第二次大戦のそれを数倍するほど苛烈なものであったため、「大戦争(ザ・グレイト・ウオー)」と定冠詞をつけて呼ばれるのは第一次大戦を指している。ここに戦争の惨禍を再び繰り返してはならないとして戦争を違法化し国際連盟による集団的安全保障を追究し始めた国際社会と、戦争こそが資源を獲得し権益を拡張する最良の手段であるとする日本社会との意識のズレが生じ、そのことが「次なる大戦」を生み出す一因ともなったのである。

 このような大きな認識の差を生んだ第一次大戦を東アジアないし日本という視座から、従来のユーロセントリズム史観の問題点を勘案しながら、いかに捉え、そして国際的にどのように発信していくべきなのか?――京都大学人文科学研究所の「第一次世界大戦の総合的研究」共同研究班では、2006年以降この研究課題に取り組み、人文書院から「レクチャーシリーズ」として既刊11冊、そして岩波書店から『現代の起点 第一次世界大戦』全4巻を世に問うてきている。

『現代の起点 第一次世界大戦』(岩波書店、2014年4月〜7月)

以上のような研究の経緯を踏まえながら、講演では私たちが提示している「世界性」・「総体性」・「現代性(持続性)」という基軸の意味を先ず説明することによって、なぜ第一次大戦が「現代の起点」となっているのか、そしてそもそも「現代」という時代の人類史における意味とは何なのかを御一緒に考える機会とさせて戴きたい。

 そこで話題に取りあげてみたいのは、第一次大戦が総力戦という戦争形態に転じたことによって私たちの生活世界そのものの変容、さらに思想戦・科学戦となったことによって大学や研究という世界が大きく転換したことの意味である。

 生活世界の変容は、大量消耗戦となった第一次大戦が大量生産・大量消費の生活システムを生み、大量消費を促すためのPRが商業化していったことに顕著に見られるが、それはまた情報操作による政治宣伝とも密接の関連するものであった。

戦時ポスター

他方、総力戦とは国民総動員体制を要件とするだけではなく、資源戦・工業戦・財政戦・科学戦・思想戦・心理戦などを戦いぬくことを意味するものであった。そして、毒ガス、戦車、航空機、潜水艦などの新兵器によって戦われるようになったため科学・技術研究体制の整備が必須の要請となり、科学者の育成と活用を図る「科学動員」が必須の課題となったのである。日本では科学戦への対応のために、大学付置研究所が作られ、理化学研究所も開設されたが、民間でも光学器械やバッテリーなどの技術開発が進んでいった。さらに、新大学令によって帝国大学以外の専門学校も大学へと昇格し、科学研究費助成が制度化されるなど今日の大学制度の起点は、第一次大戦に求めることができるのである。また、国民総動員の準備として、中等・高等教育の現場にも軍人が派遣されて「軍事教練」が実施されることにもなった。

 この他、第一次大戦によって、国際体制としては「ウイルソン対レーニン」という言葉に象徴される資本主義対社会主義の「東西対決」の時代を生んだが、東アジア世界においては民族自決思想の影響を受けて朝鮮では三・一運動が、中国では五・四運動が起き、それが現在における日・中・韓関係に通底していることにも触れてみたい。

上:大正期の理化学研究所下:東北帝国大学理科大学・臨時理化学研究所